明治18年、八雲開拓のために尾張名古屋から入植したいくつかのグループの中に、10代前半の少年だけで構成された開拓団がありました。彼らは寄宿舎で共同生活を送りながら、勉学と開墾に励みます。
彼らの寄宿舎の名前は「幼年舎」と呼ばれ、彼らが長じると「青年舎」と名を改めました。
「幼年舎」の舎生の中でも特に優秀な人物は、開墾地の費用から学費を負担して札幌農学校(現在の北海道大学)に入学させました。
「青年舎」を出て活躍した人々には、のちに八雲への酪農の導入を指導する徳川農場の農場長 大島鍛(きとう)氏や、八雲片栗粉同業組合の組合長で町長も務めた内田文三郎氏など、八雲農業の基礎を作った人たちをたくさん輩出しています。
いにしえの「青年舎」に負けず、酪農のみならず農業全般、やがては八雲の未来を背負って立つ人材を数多く輩出したい、そういう気持ちを込めて、尾張徳川家22代当主である徳川義崇氏のご承諾をいただき「青年舎」と名付けました。その第一歩が研修機能をもつ「大関牧場」の経営です。
八雲町では大正9年(1920年)に畜牛組合が組織され、ヨーロッパに学んだ酪農が発展しました。それが評判になり様々なところから視察が来ていたことから発祥の地と呼ばれることになりました。
最新の搾乳ロボットとパーラーを導入。徹底した省力化と、生乳生産量の拡大の両立を目指します。環境に配慮したバイオガス発電所も併設されます。
「研修牧場」で2年研修を受けた後は、町内の酪農家から第三者継承で牧場を取得する道や、当牧場あるいは町内の大規模法人の従業員、酪農ヘルパー等として就職する道も開かれます。