明治11年(1878年)、尾張藩主徳川義勝が北海道開拓を志し、旧家臣を移住させ開墾をした事が八雲町の始まりです。

 八雲開拓のために尾張名古屋から入植したいくつかのグループの中に、10代前半の少年だけで構成された開拓団がありました。

 彼らは寄宿舎で共同生活を送りながら、勉学と開墾に励みます。彼らの寄宿舎の名前は「幼年舎」と呼ばれ、彼らが長じると「青年舎」と名を改めました。

青年舎 明治24年

 この「青年舎」の舎生の中でも特に優秀な人物は公費で学費を負担して札幌農学校に入学させ、のちに八雲への酪農の導入を指導する徳川農場の農場長 大島鍛(きとう)や、八雲片栗粉同業組合の組合長で町長も務めた内田文三郎など、八雲農業の基礎を作った人たちをたくさん輩出しております。

 今回整備する研修牧場もいにしえの「青年舎」に負けず、これからの八雲酪農を背負って立つ人材を数多く輩出したい、そういう気持ちを込めて「青年舎」と名付けました。

「青年舎」大島日出生著 昭和58年発行